vol.6 北部と南部
独立を果たした後のアメリカ合衆国は、着実に領土を増やし順調に発展していきましたが、国内の北部と南部の対立関係が次第に表面化してきました。北部と南部では、政治的・経済的な相違点がたくさんありました。両者の経済・産業は、気候風土等の違いからそれぞれの特徴が現れています。南部よりも寒冷な気候の北部では、主な産業として漁業や貿易が発展していきました。農場主は家畜や羊毛をとるために羊を育て、多くの織物工場が次々と立ち上がりました。
一方南部は、暖かい気候から農業が発展し、たばこ、綿、米、砂糖等の作物が大量に栽培されていました。南部の農場は北部よりも規模が大きく、特に大きい農場はプランテーションと呼ばれ、労働力の要としてたくさんの奴隷たちを抱えていました。収穫した作物は北部や諸外国へと輸出されていました。商工業が南部よりも北部で大きな発展を遂げたのに対し、南部はそれらを北部や諸外国からの輸入に頼っていました。
時代はさかのぼり、植民地に最初の黒人が上陸したのは1619年のことでした。彼らは最初、北部でたばこ栽培を手伝っていましたが、多くの人が奴隷制に反対していました。初代大統領George
Washingtonも奴隷制度を否定しましたが、これを撤廃することはできませんでした。1808年に合衆国議会が新たな法律を制定し、アメリカに奴隷を連れてくることが禁じられましたが、彼らをを密入国させる人は後を絶ちませんでした。
政府はアメリカの産業を守るため保護関税政策を主張し、これが1816年と1826年に議会で可決されると、諸外国から輸入される羊毛や工業製品に関税をかけました。このため国内生産品よりも輸入品が高くなり、南部はこれに難色を示しました。南部はイギリスに原料を輸出し、イギリスは生産品を合衆国に輸出していたので、南部はイギリスとの輸出振興上自由貿易を主張し始めました。
1820年にはMaineとMissouriが新たな州として合衆国に加わる意志を表明しました。この頃になると奴隷制論争が盛んとなり、北部・南部対立の焦点となっていました。議会はこれを沈静化させるためにMissouri
Compromise(ミズーリ協定)を定め、これによりMaineは黒人が自由な身分の自由州(Free state)として、またMissouriは奴隷制を認める奴隷州(Slave state)として合衆国に加わりました。Missouri Compromiseでは他に、Missouriの南側の境州線(北緯36度30分)より北側の新たな州(Missouriは除く)では奴隷制を禁ずることとし、北部と南部はこれに合意しました。
1830年代、1840年代に入ってもこの奴隷論争は続きました。合衆国はその後1845年にテキサスを併合、この結果起こったアメリカ・メキシコ戦争で勝利を収めメキシコ領土を割譲、これが1848年にカリフォルニア州となりFree
Stateとして新たに合衆国に加わりました。Compromise of 1850では、新しく州に加わるTerritoryにFree StateかSlave Stateのいずれをとりたいかを自由に決めることが出来る選択権を与え、またFugitive
Slave Actでは脱走奴隷や脱走幇助に対する罰則が強化されました。脚注*1
1857年には合衆国最高裁判所がDred
Scott Decisionを下し、Missouri Compromiseは憲法に反すると宣言しました。同時に、議会は各州に対して奴隷制禁止を命ずることはできないが、各州が自らの州境内において奴隷制を禁止することはできるとしました。この決定は北部の反感を買い、多くの人々がこれを批判する記事を書きました。北部ではその後もしばらく間、奴隷制度の終結に向けての論争が繰り返されました。
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