vol.10 新移民たち
1840年代から50年代にかけ、アイルランドとドイツから大勢の移民が押し寄せました。アイルランドの人々の場合、1845年のジャガイモ飢餓で300万人もの人が餓死する災難にあったことが背景にありました。大半が大都市に移住し、特に専門技術を必要としない職につきました。ドイツからの移民達は、新しいビジネスを興したり農業を営む者もいました。大都市に留まることに執着せず、多くは広い土地が入手できる中西部へ移住しました。脚注*1
1850年代から60年代になると中国からの移民が増加し、多くはカリフォルニアに移住して鉄道工事や鉱山で働きました。この新しい移民の"第一波"は500万人以上におよび、早くに移住した"アメリカ人"との間の融合も必要でした。それぞれが異なる言語、宗教、文化を持ち込んだため様々な問題も起こりましたが、新生合衆国は彼らがより良い生活環境や仕事、土地を得ることができるよう機会を与えました。
1870年代には移民の"第二波"が押し寄せました。大半はヨーロッパからの移民たちで、その殆どがイギリス、オランダ、スウェーデン、ノルウェー等の国から仕事を求めて海を渡ってきた人たちでした。1890年代になると移民たちの傾向が変わり、今度はイタリア、ブルガリア、ポーランド、ギリシャ、ロシアからの移住者が増加し、その数は600万人以上にもなりました。
船でアメリカに渡ってくるヨーロッパからの移民達が最初に上陸するのがニューヨーク市港でした。1892年から1943年の間はEllis
Islandと呼ばれる島が玄関口となり、ここでアメリカ政府に対して身分証明書類を提出すると同時に健康診断を受けていました。1日に5000人以上の移民達がこのEllis
Islandを通過することもありました。
移民の数が急増すると同時に、彼らがアメリカ市民たちの職をおびやかしたり、貧困や犯罪を持ち込むのではないかという懸念がアメリカ市民の間に広がり、政府は移民の入国を管理する法律を制定することで移住を制限するようになりました。具体的には、英語を読み書きできない移民の入国を拒否する法律を議会が承認(1917年)し、更に移民の数を制限する法律(1924年)が施行されました。1929年には、年間に受け入れる移民数を上限150,000万人までとし、出身国の割合も定めました。当時は、全体の70%までの割合でイギリス、アイルランド、ドイツからの移民が認められました。一方、メキシコ、中央アメリカ又は南米出身者には制限はありませんでした。
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